ファンクの帝王ジェイムズ・ブラウン

ファンクの帝王ジェイムズ・ブラウン

通称JBと呼ばれるファンクの帝王ジェイムズ・ブラウンは、ブレイクビーツの楽曲などでもJBの曲があるほど、ファンクを語るときには絶対に抑えなくてはいけない大物アーティストです。帝王の他にも「ミスター・ダイナマイト」「ファンキー・プレジデント」「ナンバーワン・ソウル・ブラザ」といったたくさんの愛称があるほど、ファンク界ではなくてはならない人物です。

日本では、1992年に日清食品のカップヌードルMISOのCMキャラクターに起用され話題になりました。「Get Up!」が日本人の耳には「ゲロッパ!」と聴こえるということで、JBが「ミソンパ!」というフレーズに置き換えてJB自身が歌うというパロディコマーシャルです。

ジェイムズ・ブラウンの生涯 ~ファンク革命するまで

マイケル・ジャクソンもプリンスも、ジェイムズ・ブラウンの影響を多大に受けたアーティストです。プリンスはJBがまだ若い頃のコンサートの最中に、スタージに上がって踊り続けて、警備員からプリンスは引き降ろされたこともあります。それほどプリンスはJBの熱烈なファンでしたが、プリンスとして大成功を収めてからもJBのコンサートへ行き、ステージ上からJBがプリンスを呼んで警備員におんぶされながらステージに登場して、ギターを手渡されますが、興奮のあまりまともに演奏することもできずに、上半身裸になってフラフラしながら照明器具を倒しながら、客席に戻ったといいます。

マイケル・ジャクソンも、小さな頃にJBのステージの端から端へと踏んでいく、驚異的なJBのステップを見て、ダンスもかなり学んだといいます。ショービズとして、観客を沸かせるアプローチなどもJBから多大な影響を受けたといいます。

プリンスがJBのステージに呼ばれる前に、マイケル・ジャクソンが先に客席からJBのステージに飛び入り参加しました。そこで、マイケルはマイケル独自の歌と踊りを披露して観客から大喝采を浴びています。JBはその時にプリンスも客席にいることを聞いて、プリンスをステージに呼びましたが、プリンスは興奮のあまり…・の結果でした。笑

生い立ち

ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown,Jr.)として、サウスカロライナ州バーンウェルに1933年5月3日に生まれています。このことは、JB自身が自伝などでも書いていますが、別の説には1928年に、テネシー州プラスキ生まれたという説もあります。

JBは成人した後に、ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン(James Joseph Brown) へ改名しています。JBが生まれた家は貧しくて、ジョージア州オーガスタに移り住んでいましたが、、ブラウンは親類の家などで育てられることになりました。JBが幼少の時には、家計を助けるために、綿花詰みの手伝いや下町で靴磨きを行って生計を助けていました。

JBは子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌って優勝をさらうほどの歌唱力を持っていました。と自叙伝でブラウンは回想しています。やがて成長するにつれ、JBは犯罪に手を染めるようになり、16歳の時には車の強盗の罪で有罪判決を下されることになり、1948年からトコアの教護院に収容されることになりました。この時には3年服役しています。

教護院で服役しているときに、ブラウンはボビー・バードと知り合います。(ボビー・バードは後にJBの片腕となる人物)。バードの家族はJBが出所した時にはバードの家族が保証人となりJBが釈放された後の生活を助けています。

JBは、オーガスタやリッチモンド郡に戻らないで、仕事をするという条件の元とゴスペルを歌うことが仮釈放の条件となっていました。そのためJBはボビー・バードのゴスペル・グループに加入することになりました。そしてJBは救護院から出所して、ボクサー、野球のピッチャーを短期間ですが経験していますが、結局は脚の怪我で断念することになりました。そしてJBの関心と情熱は、音楽へ傾いていくことになりました。

1950年代

JBとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始めました。それから後、結局JBはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加します。バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになりました。そのバンド名はグループの名前を「フェイマス・フレイムズ」と変えて、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコードと契約を結びます。

「フェイマス・フレイムズ」のファースト・シングルは1956年に「プリーズ・プリーズ・プリーズ 」(Please, Please, Please)としてリリースされました。レコードのクレジットには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ」(James Brown with the Famous Flames)となっていて、「プリーズ・プリーズ・プリーズ 」はチャート5位を記録して、ミリオン・セラーになりました。しかしこの曲がヒットした後は、ヒット曲に恵まれなかったため、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後に、契約していたキング・レコードは、バンドと契約解除を行おうとしました。

1958年に「トライ・ミー」(Try Me)が、ビルボード48位の小ヒットとなったことで、なんとかバンドは活動を続けることができました。バンドの曲のほとんどはJBが作曲していたため、バードのバンドだったフレイムズからJBが実質的なリーダーへと変化することになり、結局はJBが後にソロ活動をしていきますが、JBのバックバンドがフレイムズというようになっていきました。

これらの初期の録音には1959年「I'll Go Crazy」1960年「Bewildered」といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードやレイ・チャールズといったこの時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれています。やがてJBの歌唱スタイルは変化していき、それが後に「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展していくことになりました。Pファンクはもちろんですが、プリンスなど強い影響を与えることになりました。

『ミスター・ダイナマイト』の誕生です。

1960年代~ファンク革命

JBとフレームスの初期のシングルは、アメリカ南部とR&Bチャートでは成功していましたが、まだまだ全国的な成功とはいえるものではありませんでした。全国的な成功には、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした1962年『Live at the Apollo』まで、待つ必要がありました。このライブ盤は、バラードヒットを多く放っていた初期のライブでの熱狂を伝えることで、もっと広く支持層を広げるために制作にあたったいたようですが、1960年代はまだライブ盤という概念があまり無い時代ということもあって、キング・レコードは商業性にもムリじゃないかという理由で、ライブ盤の発売まで発売するかどうかとJBサイドと大モメしていたようです。結果的に、『Live at the Apollo』は大成功を収めることになり、シャウターして歌うJBの認知度もグンと上がり、JBが最高の形で収められています。JB自身もこのライブ盤には、自身も勝負をかけていたようです。

1962年『Live at the Apollo』のライブ・アルバムが成功した後に、最初のファンク・ナンバーとされている1964年『Out of Sight』を発表しています。それからさらに『 Night Train』を制作しています。これらの楽曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴的になっています。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのって好調を保っていました。しかし、『Out of Sight』はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となってしまい、裁判の結果JBの録音作品の1年間リリース禁止を言い渡しされました。1967年ごろのJBのドラムスには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいました。『コールド・スウェット』はクライドがドラムスを担当した大傑作ナンバーになっています。

ロンドン発!Jamiroquaiジャミロクワイ

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